久しぶりにマジなことでも書きますか。
中岡慎太郎という人物をご存じだろうか。
この人物は幕末期に活躍し、坂本龍馬と共に近江屋で襲撃され、命を落とした。
この人物は土佐の庄屋の息子として生まれながら脱藩をして長州の高杉(晋作)たちと手を取り合い、戦った。
はじめは土佐勤王党(党首:武市瑞山)で党首の片腕的な働きをし、土佐勤王党壊滅後は全国各地で活躍した。
交流範囲は公家たちを始め、勤王派の志士たちが中心で同時期の坂本龍馬とは異なる範囲の人々との交流が主だった。
岩倉具視と三条実美を手を結ばせたこともある。(この二人が手を組んだことで後の明治新政府の根幹が出来上がった)
そのように素晴らしい活躍をしていたわけだが、あまり知られていない。
少し知っている人でも坂本龍馬と比較されて「過激派」というイメージが強い。
かくいう自分もそうだった。
この人物に関する資料は極端に少ない。
手紙一つとってもそうなのだが、「中岡慎太郎」という署名の手紙は現存する限りでは2通だそうだ。
他は「石川清之助」であったりとか「石清」とかとして残っている。
当時としても変名の方が有名だったらしい。しかも変名が何であったかがわかったのは時間がたってからだったらしいので詳しいことを調べるのが困難な状態である。
自分がこのことを知ったのは土佐にある「中岡慎太郎館」にいったときだ。
そこにいた学芸員さんが詳しく教えてくださった。
当時の考えからいうと中岡慎太郎の考えは過激派でも何でもなく、勤王派にあったごく一般的な論だった。
むしろ坂本龍馬の考えの方が「過激」だった。
日本の歴史を見ればわかると通り、政権が変わるという節目の時は必ずと言っていいほど軍事によって行われている。
そうしなければ、前政権のものが亡霊のごとく新政権にまとわりつくからだ。
明治の時もそうだ。
徳川慶喜はとても聡明であった。
仮に武力による革命が起きなかったならば明治維新は有名無実のものとなっていた。
日本一の領土を持つ徳川家を議長に据えた雄藩連邦となっていただろう。
そして実質的にはほとんど変わらないものになったであろう。
そう考えるならば何ら過激ではないし、むしろ民衆に知らしめるという点においてもっとも有効的であった。
当時の感性をなくして歴史は語れない。
そう強く実感する。
それ以上に今のコメンテーターや学者が第二次大戦のことを今の感性において悪いからすべて悪いという考えを押しつけるのはどうかと思う。