安寧の50年
第一次クリーク・ポルトガル戦争後、クリークにとって敵となりうる存在はフランスだけとなっていた。
「ポルトガルには勝てた。ならば次はフランスとの戦いか」 という考えが浸透しつつあった。
しかしそんな時期に大長老オポツレヤホロ一世が死去してしまった。彼の後を継いだのは軍事に優れたウィリアム四世マッキントッシュであった。
彼は強大な陸軍国家であるフランスと戦って勝てるとは思っていなかった。むしろ負けてしまうだろうと予測していた。
そのため、クリークは親仏政策を展開して戦争を回避しようとした。この政策は功を奏しフランスと事を構えることを回避することができた。
だがいつ戦争が起こるとも限らないために富国強兵を志した。
その方針の一つとして海軍の増強があった。
今までアメリカ大陸内だけで戦っていたわけだが、西洋諸国と戦うようになってきて沿岸の警備が必要となってきた。
海岸線に兵士を貼り付けたのでは効率が悪く、尚かつ財政的にも維持し得ない。
そのため、海に船を浮かべて守るという考えが生まれたのだ。 それまでにも海軍は存在したがついに本腰を入れて増強されたのである。
それにより大型船十二隻小型船二隻が完成したのであった。
一方で勢力を拡大しようと積極的に動いていた。
その一つがイロコイの併合である。
元々属国であったイロコイだがこのまま行けばフランスに飲み込まれる可能性があった。
かの国の中では「西洋に飲み込まれるくらいなら」という気持ちもあったのであろう、アメリカの国であり宗主国でもあるクリークの併合条約に調印したのだった。
(ただし一部の反対者も存在していた。彼らは併合後、たびたび反乱軍を形成して再独立を試みようとしていた)
これにより平和を維持しながら拡大に成功した。
このほかにも防衛力の強化や農業改革による収入の増加、道路建設による交易の活発化などを行っていった。ポルトガル文化もクリークに含まれた。
その結果として確実に経済力をつけていった。
この50年で防衛力は増強されたが正規部隊数は減っており、総合的な攻撃力は落ちていた。
平時には経済問題から多くの兵力を持とうとしなかったのだ。
元々クリークは戦争が起こると傭兵部隊を雇い、多いときには全部隊の六割以上を占めていることもざらにあった。
そんな国家が長期の平和を過ごしたらどうなるか。答えは簡単だった。確実に兵力は減ってしまったのだ。 そしてその時を虎視眈々と狙っていた国があった。
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