今日、教育経営論Aにて個人的に困ったことが起こりました。
前に出した「コルチャック先生」の感想の発表を何人かにしてもらうということになったんですよ。
その中には自分の書いたやつも選ばれていたわけでして・・・。
さて、ここで問題なのは自分はコルチャック先生を一切読まずに書いた所謂偽造的なもの(写したんとかではないが本文知らずに適当に書いた)なわけでして書いてる内容(第2節の感想のところ)も初っぱなから「私の中では、この本に対して一種の嫌悪感を抱いていた。」ですよ。
よくこんなもん選んだな~と思う反面、「俺に発表しろと言うのか?おれは寝るつもりできたんだぞ!?」と言いたくなってました。
ちなみに発表時には頭の中真っ白でわけわからなくなって適当にやってしまいました・・・。
まじであのじじぃふざけんな~~~!!!!
ちなみに書いていたことの全文です。
第2節 感想
私の中では、この本に対して一種の嫌悪感を抱いていた。私は、歴史について調べるのが好きで、その中でナチスの絶滅収容所についても調べたことがあるからだ。その時に得た結論としては、絶滅収容所などは存在せず、逆にナチスはユダヤ人たちを生かそうとしていたということだ。これには科学的な裏付けもあった(ガス室から毒ガスを使用したときに発生するはずの反応が見られら無かった)。また、この事実から、アウシュビッツのガス室跡の案内板に学者の公認がないもの一つの証拠となっている。だから、これは、アンネと日記と同じような連合国による一種のプロパガンダだと考えていたからだ。だが、読んでみると全く違うということが見えてきた。もちろん、絶滅収容所があったと認めることではない。
当時のユダヤ人たちは、多くの同種の人たちが、ヨーロッパで迫害され、白人種によって差別されていた。そして、ついには、一カ所にまとめてられて、隔離される。入れられた人たちは帰ってこないとなればユダヤ人にとっては非常に恐ろしいことであったと思う。仮に自分がユダヤ人ならこのようなことが起こっていれば自分も殺されると思っただろう。
ドイツのユダヤ人に対する政策は旧来の慣習に沿っていたにすぎないと私は思っている。白人にとって、ユダヤ人は、宗教で定められた嫌悪の対象としていた面がある。だから、ユダヤ人が迫害されるのは当然の成り行きだった。そして、コルチャックの場合は、裕福な家庭に生まれたという点と占領地の国民であるという二つの点からもその対象となり得るだけの条件はそろっていたのだと思う。しかも、投獄・迫害された政治活動家の子を受け入れる孤児院まで作っている。
きっと、彼の考えの根本には、「親の罪に対して、子どもたちには、何ら非はない」というものがあったのだろう。だが、当時としては、その考えは、革新的であっただろうと思う。それ故に、当初は周りから非難があっただろうが、それでもやめずに続けていたというのは、尊敬に値する。自分の確固たる信念を持ち、死に直面してもそれを曲げることなく、保ち続けられる人は、稀と言っていいほどだ。
この人物について少し調べてみたが、最後にトレブリンカ強制収容所へ移送されるとき、ナチスはコルチャックを助けようとしたそうだ。それにもかかわらず、彼は子どもとともに死に逝く道を選んだ。確かに、ナチスに対して恨みがあったというのも断った原因の一つかもしれないが彼は、きっと自分の身を守るよりもそれ以上に守るべきものとして「将来に幾通りもの可能性を秘めた子ども」を優先させたのだと思う。
惜しむべきは、このような人物が死んでしまったことだ。このような人物は、むしろ、何らかの小さなことにこだわって死ぬのではなく、より長く生きて、第二次世界大戦などで出てきた戦災孤児など引き取る孤児院を是非やってほしかった。
現代の世界では、子どもの人権を守ろうとする動きは多くあり、子どもの権利条約なんてものも存在する。しかし、今、コルチャックが生きていたらならあまり喜ばないだろうと思う。子どもの人権を守ると言いながら親がないがしろにすることは良くあるし、なにより、子どもたちが子どもの権利条約を知らなかったりするからだ。
子どもの権利条約は子どもたちにとっては一種の憲法ととってもいいものだと思っている。それを知らないというのは、それを教えるべき親や教師などの大人たちが真剣に考えているとは言い難く、「子どもの人権を守ろう」とか「子どもにも権利があるはずだ」と声だけ上げて実際の動きが伴われないものとなってしまっているのだと思う。
だからもっと積極的に世界中の国々が動くべきで、子どもの将来を潰すようなことが起きないようにする体制を作るべきだと思う。それが、結果としてコルチャックが求めていた理想的な世界像というものに近づくのではないだろうか。そして、その考えの中で育っていくであろう子どもたちは戦争という過去の力による問題の解決ということを嫌い、どうしたらより幸せな世界にすることができるのかということを第一に考える人間になっていくのだと思う。