読まずに書いたコルチャック先生のあらすじ

ネタがないということで昨日書いたコルチャック先生の提出用に作ったあらすじのほうでもUPします。

第1節 あらすじ
 裕福なユダヤ系ポーランド人の子として生まれたヤヌーシュ・コルチャック(ヴォイツェフ・プショニャック)の話。
 当時、文学者であり医者でもあるコルチャックは,ポーランドの首都であるワルシャワに、戦争孤児や投獄・迫害された政治活動家の子たちの受け入れる場としてポーランド人のための孤児院である「ぼくたちの家」と、ユダヤ人のための孤児院である「孤児たちの家」をつくり、家族を亡くしてしまった子どもたちを保護するとともに教育に力を入れ社会のために尽くしていた。だが,1933年に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)がドイツの第一党となり政権をとった。当時、ナチスはゲルマン民族の誇りを焚きつけるために反ユダヤ主義を全面に打ち出していた。その考えは、党首であったアドルフ・ヒトラーが首相に就任すると、近隣諸国にも広がっていった。ポーランドもその例外ではなく、その余波を避けることができなかった。その結果、コルチャックは自身が行っていたラジオ番組『老博士のはなし』の打ち切りを命じられる。また、「孤児たちの家」の子どもたちも余波を受けた一般市民たちによる言われ無き中傷や暴力行為などのため、安心して外出もできない状況に陥ってしまう。
 そして、1939年、ドイツ軍は電撃作戦の第一陣としてポーランドに侵攻を開始する。そして、短期間でワルシャワを制圧。そして、占領する。当然、ワルシャワに住んでいたコルチャックたちはナチスの政策のもとに圧迫される。しかし、コルチャックはユダヤ人を示す腕章をつけようとしなかった。また、「孤児たちの家」の子どもたちの尊厳を守るため、ドイツ軍将校に立ち向かった。しかしながら、高い壁と有刺鉄線に囲まれたユダヤ人特別居住区となっていたワルシャワゲットーへと、移住しなければならなくなってしまう。
 ワルシャワゲットーでコルチャックと子どもたちを待ちかまえていたものは、餓えと厳しい寒さとの戦いだった。コルチャックは子どもたちに栄養をとらせるため、貧しい身なりで街に出て、心ある人々たち(密輸業者などもいた)から寄付を得ようとした。しかし、その努力では焼け石に水とばかりに、孤児たちの健康は危うくなり、精神的な疲弊も深刻なものになっていった。コルチャック自身も物資の調達中にドイツ軍にゲシュタポに連行され、拷問を受けることとなってしまう。だが、コルチャックは生命の危機と隣り合わせの中であっても、子どもたちに日々、大切に過ごせるようにと演劇会を催す。コルチャックたちはどんな悪影響下にあっても、決して生きることをあきらめようとはしなかった。しかし,ナチス政権の対ユダヤ人政策はさらにコルチャックと子どもたちを追い詰める。当時、ナチスは占領地区やドイツ国内でユダヤ人を東部にある強制収容所へと移送させていた。その計画が確実に広がっていき、旧ポーランド領にまでその政策が行われるようになった。コルチャックたちは 1942年8月6日にトレブリンカ強制収容所への移送命令が下ったのだ。コルチャックの友人たちや幾人もの心ある人たちがなんとかコルチャックを助けようと奔走し、海外へ亡命の準備も整えてくれていた。しかし、コルチャックは、恐怖に怯えている子どもたちを見殺しにできようはずもなかった。彼は死ぬとわかっていても子どもたちとともにいることを選んだのである。彼はユダヤ人の印である「ダビデの星」の入った旗を高らかに掲げながらトレブリンカ強制収容所へと向かう家畜用の貨車に200人余りの子どもたちを抱きかかえながら乗り込んでいった。

・・・・なんというかてきとーですね。
関係ないことで字数稼ぎしてるし。
でもどうも欧州人が書いている書物は毛嫌いしてしまうのでしてこうなっちゃうんですよね・・・。
間違ってる点があったら指摘お願いします。

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